昨夜行われた某テレビ局の会見。テレビに全く興味のない筆者(その昔若い頃は芸能関係の仕事に長年携わったが、全くその頃から興味が持てなかった笑)、ましてや海外在住者の僕は今回の事件を別に特段不思議な事案とは思っていないし、起こるべくして起こった事案だと思っている。これはどういうことかというと海外に長く住んでいる者からすれば「日本の常識は心の底から世界の非常識である」という世界の常識を知っている人間の意見である。
今回は日本という非常に特殊な国と、海外(日本以外)の場合はどうか?という問題を考えてみようと思う。それには日本という国の本質を海外からの視点から見るのが一番手っ取り早い。それでは今回のような事案を産んでしまった日本の風土や日本人の気質について考えてみよう。
いったい何がこのような事案に導かせたのか?
まず一番初めに最大の根源は「日本人だったら相手を思いやれ」と幼い頃から学校で教育を受ける。まずこれが最大な根源である。この「相手を思いやる」ということが日本ではねじ曲がった考え方で人々に植え付けられてしまっているのが問題だ。例えば会話している時も自分の本心は決して語らず、その本心をオブラートに包んだり、反対意見を持っているにもかかわらず相手に同調したりすることである。これは国外に住んでいないと本当の意味を理解ができない。なんせ諸外国の人と人とのやり取りを長年肌で感じないと本当に理解ができないからだ。
言葉を変えてみよう。「Noと言えない日本人」は完全な間違いである。問題はなぜNoと言えないかという根源を考えねばならぬのだ。元を辿ると「相手をおもいやれ」という無条件の道徳心を植え付けられている結果でしかない。
そして日本では自分の本心をガンガン相手に突きつけると「この人はちょっとヘンな人だ」とか「この人は相手の気持ちを考えられない人だ」とレッテルを貼られてしまう。それに対して諸外国ではたとえ対友人だったとしても自分の思っていることはガンガン直接オブラートに包まずに語り合う。それこそが良い意味で議論に発展し、自分では持っていない思想を学べるのである。日本では「この人の考え方とは合わないから距離を置こう」ということ発展してしまうが、諸外国では決してそうはならない。
その点から考えると日本の教育、特に小学校や中学校の教育が全ての根源であることは間違いがない。僕は常に思っている。日本の小中学校の教師を全員一人残らず外国人にしてみてはどうかと。50年ほど。そうすれば日本はおそらく一歩一歩小さな変化を見るであろう。もしそうでなければたとえ教育方法や教育手法などを変えたところで10000000年経ってもこの日本人のマインドは変わらないのは確かだ。
さて、次の根元に行ってみよう。これは誰しもが理解しているであろう「年功序列」である。これを子供の頃に植え付けられてしまう。先輩とか後輩とか中学校でその概念を植え付けられてしまう。これも最大の根源の一つである。
年功序列の何がいけないかというと、例えば中学校で年上の先輩の言うことが絶対、というマインドセットを植え付けられてしまうことである。特に子供時代は歳上が言うことは絶対服従。これの何がいけないかというと「自分の意見は言わなくてもいいや、なぜなら周りもそれに従っているから、、、」という考え方が深層心理に植え付けられてしまい、結果的に先述した「オブラートにつつむ」ことを子供の頃からごく自然に学んでしまうのである。世界では全く通用しない考え方だ。
世界、特にアジア圏内においては歳上を敬う文化は確かにある。ゼロではないしそれはとても美しい文化である。だがしかし例えばここ東南アジアではもちろん歳上、年上と言っても年配者はとても敬う傾向にある。が、ここで大きい違いは年上は年下を絶対に歳の差を理由に圧力をかけたりしないのである。逆に年配者は年下を見守るという立場にある。日本ではどうか?というと日本ではちょっとした歳の差でもマウントを取ったり服従させようとする姿を僕自身肌で感じたことが多々あった。世界ではとんでもない風習である。
次に重要な点は日本人は雇用に関して「組織に雇われている」というマインドセットがある。つまり組織ありきであり自分はその会社や組織が「雇ってくれてる」という深層心理が働いているのである。これもまた悪の根源の一つである。海外ではそのような感覚は一切なく「この企業で働いている」という超淡白な雇用の事実だけであり、精神的に企業がワーカーを縛ることも一切ない。だからこそ企業も何かあればすぐに解雇したりするので言葉で表すならば淡白な雇用関係なのである。
残念なことに日本では退職する際に「うまく退職を伝えられない、代理で誰かに伝えてもらおう」という意味のわからない業種も現れていているし、さらには退職する前に自分を追い込んでしまうパターンも無限に見てきたであろう。これにはもちろんパワハラが原因であったりさまざまな事が作用してこうなっているのであるが、そこにはもちろん先述した人を思いやれとか年功序列の精神も作用しているのは間違いない。今回の某テレビ局の事案もそうで、社員、そして役員同士においても自分の意見は全く言えないままに風習や慣例をそのままなんの疑問も持たずに波風を立てぬように何十年もやり過ごしてきた結果であることはおそらく誰の目にもそう写るであろう。それは一人一人の日本人が子供時代からそのように過ごしてきた結果である。会社だけでなくお隣さんや友人関係、ママ友、学校組織。全てにおいて一人一人が気付かぬうちに同調圧力に協力してしまってきた結果である。同調圧力というものは決して誰かが決めたことでもなく、実際にその圧力があるわけでもなく、それは一人一人のマインドが集団で集まっただけにすぎない。言葉を変えると「お隣さんのマインドも多分同じだから以心伝心でそう思ってるはずだよね、きっと、、、」と思っている個人の集合体のことを指す。決して目に見える圧力ではないのである。
例えば僕も稀にここマレーシアで日本からきたばかりの人々と現地人を交えて会話することはある。語学力云々の前に人間としての立ち振る舞いが世界から見ても「完全におかしい、コイツ大丈夫か?」と外国人には思われてしまう。大人なのにもかかわらず思考能力がまるで子供に見えてしまうのである。結果的に日本人は個人では海外で全く力を発揮できない人種に成り下がってしまっている。つまり人間力が日本人は極めて低く見えてしまうのである。これは海外に長く住んだ者であれば誰しも理解するであろう。ちなみに日本人はここマレーシアで「ステルス」だと思われている。多くのマレーシア人の友人たちは「過去に日本人にあったことない。どこにいんの?マレーシアに日本人っている?」という感情を抱いている。日本人が海外に溶け込めない人材が多すぎるのである。これは決して言語の壁の話ではない。
さて、話を最後にまとめてみよう。これらを全て熟考するとコンプライアンスとかガバナンスとか正直どうでも良い横文字が現在日本では飛び交っているが、それよりも何よりも重要なのは日本人の思考と文化である。それを正さないことには1000年後も日本は全く変わらない井の中の蛙である
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